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ふわっふわしている

  • Tuesday 06, December
  • days
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今日現在の素直な気持ちとして、生きているというのが、どういう事、どんな意味なのかよくわからない感じになってきている。まぁ、大昔からある疑問なんだろうけれど。

そんなことを意識して生きてきたことはあんまり無かったけれど、ここんとこ急に頭の中を支配するようになった。「なんで生きてるの?」っていう問いかけが、いつも頭の中にある。「なんで」は「何のために」とか「誰のために」にでも置き換えられるのかな。生きてる事自体は、なにとか誰とかのためじゃなくて、なんていうかそれこそ本能としてそれを続けているのかなぁとかも思う。生きるために生きてるというか。生き続けるために、心臓が動きつづけている。それ自体は、俺の意思じゃない。心臓を動かそうとしているわけではないのだし。ペースメーカー細胞だっけか、そんなのが動かしている、と。胎内にて各種器官ができた時から、特に自分で意識することなく心臓が動き、呼吸をして、生きてきたという事か。特にメンテナンスもせずに、42年間動いているのだから、心臓というのはスゴイなぁ。

生きる目的とか、目標とか、守るべきものとか。そういうものも、自分の中には特に浮かばない。その刹那、面白いと感じたり、大切だと思ったり、可愛いなぁと愛でてみたりすることはあるけれど、持続することがない。一度ダメになると、それを修復したり、考え直したりすることができない。そういえば何年か前までは、目標とするようなこともあったのだけれど、いろんな事情が重なって、いつの間にか俺の中からは無くなってしまった。守るべきものとしては、店は確かにそうではあるけれど、恐らくこれは俺がいなくても成立する場所。俺じゃなくても守れるものだから、生きていくためのトリガーにするには、ちょっとパワーが弱い。とはいえ、今はここが俺の収入を生み出す仕事場だから、大事なところだってのは間違いないんだけどさ。

誰かに必要とされたい(かまってちゃん的な)のかと問われれば、それともまた違う。むしろ、誰からも必要とはされたくないかもしれない。なんつぅか、出会って遊んだり、飲んだりしたときに、話したり、笑ったりすることが出来れば、それ以上は特に望まない。深く関わることに対しては、若干の恐怖すら覚える。自分が何をしでかすかわからない。その反面、Facebookのあいさつが届いたりすると和んだりするから、これまたよくわからない。まぁ、それぐらいの距離感で十分だったりするのかも。

親には今までの迷惑(本当に、夥しい数の迷惑をかけてきた)を返したいという気持ちはある。でも、具体的なイメージは浮かばず。18で家を出てからは、ほぼ実家により着くこともなく、一緒に暮らすこともなかった。二人共すでに年金受給者になり、子供(俺と弟)の煩わしさから解放されて、悠々自適である。今更、下手に俺がかかわると、さらなる迷惑をかけそうで(それが親子関係というものなのかもしれないけれど)、今でも腫れ物を触るような付き合い方しかできない。彼らも、わざわざ俺と積極的に関わろうとは思っていない。やっとつかんだ、ゆったりした生活を、俺がかき乱してはならないと思っている。

3つ年下の弟は、ハンデキャップを抱えているが、本人の努力により、それを感じさせない生活をしている。誰もが知る会社に勤め、本当にステキな姉さん女房をもらい、可愛い娘も賜った。弟に関しても、なんの心配もない。むしろ、弟が俺のことを心配ているんじゃないかと思う。彼が、幸せに暮らしているのは、今の俺が思う、数少ない嬉しい事の一つだ。いつまでもいつまでも、幸せに暮らしていって欲しい。

自分の子供に関しては、全て処分したと思っていたんだけれど、とある写真を見つけてしまったからなのか、このところ思い出すことがある。夢にも出てきたりする。もう15歳と13歳になるだろうが、夢のなかでは当時の5歳と3歳のままだ。服も変わらないし。でも、不思議なくらいに元の奥さんや彼女達には、会いたいとは思っていない。人として、どうかと思うこともある。冷たいのかもしれない。でも、痛すぎて痛すぎて、早く忘れようとしていた頃もあった。それに関する記憶を、ストンと落とそうとしていた。それなりに、その試みは成功したのだろう。今は、遠くから、チラっとだけ見てみたい。そんな感じ。

「なぜ生きているか」に対する答えは、今のところ、俺の頭ではどうやっても出てこない。「なぜ死なないのか」に関しても、よくわからない。生きようとしているのか、死のうとしているのか、といえば前者だけれど、それほど積極的ではない。今死んだら、どこに、誰に迷惑がかかっちゃうんだろうか。ホントに死ぬときには、迷惑がどうのなんて考えられないものなのかな。そんなこともひっくるめて、わかんない日々が続いている。イヤな頭痛はいつもそばにいるし、お気に入りだった靴の底は擦り切れてしまった。大好きな冬が来ているはずなのに、いつまでたってもキーンとした寒さがやってこない。どこかが、ふわっふわしてる。ふわっふわ。

そういえば来年2012年の5月21日に、日本で金環食を見ることが出来る。20代の頃に2012年に金環食があると知ったときは、そんな先のことなどイメージできないと思っていた。それが、もう半年足らずでやってくる。嘘みたいだ。次の金環食がある2030年には、俺は60歳。正直なところ、生きているイメージは持てない。

たぶん来年の5月21日、金環食までには、これからどうするのかを決めているだろうと思う。


That's the hardest part.
Today everything is different.
There's no action.
I have to wait around like everyone else.
Can't even get decent food.
After I got here I ordered spaghetti with marinara sauce...and I got egg noodles with ketchup.
I'm an average nobody.
I get to live the rest of my life like a schnook.
〜 GoodFellas, 1990

歌のこと

  • Friday 21, October
  • days
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前にも少し書いたけれど、大昔、バンドをやっていた。バンドをやっていたっていうか、歌ってた。大好きだった。青春時代の少なくない時間、そこに時間も思いも注いでいた。とはいえ、これも前に書いたとおり、花開くことは無かったのだけれどね。

そのバンドは高校時代に組んだバンドで、コピーは1曲もやらず最初からオリジナル曲のみでやっていた。あ、違う「おかしな二人」だけはコピーしたわ。あの前奏がやりたくて。うはは。んでもって、文化祭に出てみたり。高校を卒業してからもライブハウスやホコ天、他にも様々なオーディションやコンテストに応募したり。メンバーの内、ギターやドラムは完全にプロ志向で、今思えば色んな事を考えていたように思う。

でも、俺自身は、なんだかすっごく「ふわっふわ」した気持ちでバンドに参加していた。最初は学祭に出ようか、ぐらいの軽い気持ちからバンドに入り、なんとなくギターを弾き、歌い。高校卒業後、留年〜大学入学の間にも、流されるままにオーディション受けたり、ライブハウスに出る日々。凄まじい努力をしたわけでもなく、バイトしながら必死に、とかいう状態を一度も経験せずに「なんとなく」楽しんでいるうちに、気がついたらそれなりのレコード会社に拾ってもらい、ニューヨークでデモテープを録音する、なんていうところまで行っちゃってた。今書いてても嘘みたいだ!いわゆるバンドブームの恩恵を、ものすげー受けまくりやがっていたのよね。

で、その「なんとなく感」がそうじゃなくなったのが、皮肉なことにレコード会社から「おつかれさん」と言われてからだった。俺は、すっかりバンドで生きて行く気満々になっていたのだ。今考えたら、甘すぎて笑っちゃうぐらいなのだけれど。目の前が真っ暗になるっていうのは、正にあの時の事。嫌な汗が、ドッと出てきて、動悸、息切れがする。プロデューサーの話す言葉が、よく頭に入ってこない。横に立っていた、いつもにこやかに笑ってくれていた事務のお姉さんも、今日はニコリともしない。彼女が最後の給料を振り込む日付を伝えた後、驚くほどシンプルに俺達は首を切られた。

その後は、色んな仕事に就いたけれど歌を歌うことはなかった。歌うことが必要な仕事なんて無いからね。幼稚園の先生や音楽の先生とか?それも自分のバンドの歌を歌えるわけでは無いしなぁ。いつの間にか日々の暮らしの中で、俺の中での「歌う」っていうジャンルは消えつつあった。車の中に一人でいても歌うことはなかった。あの時のショックを癒すために、自己防衛本能が働いたのかもしれない。歌うことは、俺の中から急速に輝きを失って、どんどんと無くなっていった。

離婚後もしばらく御殿場の地ビール屋で仕事をしていたのだけれど、その時のスタッフの子が「仕事終わった後みんなで飲みに行くんですけど行きませんか?」と声をかけてきた。特に用事もなかったので仕事終わりに、その飲み会に合流。飲んで食べて、お開きにという段になって「カラオケ行こう!」という流れになった。ドクンと心臓が大きく波打った。あの日以来、カラオケにすらも行くことは無かった。自意識過剰すぎだけれども、本当に歌うのが嫌だった。

今でも忘れない、裾野のラーメン屋に併設されたカラオケボックス。いかにも場末で、部屋に入るとすえたカビの香りもした。同行した連中は、すぐに曲を探し始める。俺は、落ち着こうとタバコに火をつけ(今はもうやめてる)ビールを飲んでいた。「歌ってくださいよぉ♪」当時気に入っていたスタッフの子が、めっちゃ可愛い笑顔で歌本を渡してきた。お酒も飲んでたけど、何にも酔いは回ってなかった。ものすげぇ、嫌だった。死ぬかと思った。

歌った。歌った。歌った。歌った。歌った。

スゲー楽しくて、死ぬかと思った。やっぱり歌うの楽しいって、深夜のカラオケボックスで再認識して、俺はダラダラと泣いた。みんな引いてた。更に歌った。更に引かれた。歌いながら泣く人なんだという認識もされたけれど、歌った。泣いた。歌った。そこからは、一切歌うことに関しての抵抗もなくなり、あの時の事がフラッシュバックすることも無くなった。やってみたら簡単だった。歌うの楽しい。すげー楽しい!

んでもって。先日、バンドのギタリストがひょっこりと店にやってきた。何の前触れもなく、ひょっこりと。今でも彼は、俺にとって世界一のギタリスト。そいつがなんと、ZO-3を抱えて店に入ってきた。

「歌わせようと思って」

ニコニコと笑いながら、アイツは言った。閉店後の暗い店内で、俺は十数年ぶりに自分のバンドの曲を歌った。やっぱり楽しかった。聞けばアイツも、しばらくギターを弾かなかったらしい。最近、ふと気が楽になって、また弾いているという。色々と話していたら、スタジオにでも入って、ライブしようという話にまでなった。こればっかりは、どうなるかわかんないけど、今なら本当に気楽に、歌いたいと思いながら歌えるんだと思う。

と言う事で、これ読んだ人はライブやる時は、来てください ;)

カメラの記憶・Contax T2

  • Thursday 22, September
  • camera
Contax T2
コンタックスのカメラを一番最初に認識したのは、いつのことだっただろう。

例のAE-1が手元に無くなった後は、しばらくカメラのない生活だったような気がする。高校の頭から始めたバンドに費やす時間が増えていき、写真と過ごしていた時間も徐々に減っていった。最初はスタジオにコンパクトカメラなどを持って行ったりもしたのだけれど、撮るメンツが変わらないから面白くもなんともない(愛する相手なら別だけどさ)。高校卒業〜浪人〜大学と、ずっとバンド中心の生活(実はビリヤードも結構真剣にやってた)だった。今思うと、わいわいと合コンに行ったり、サークル活動でキャッキャウフフとか、そもそもキッチリ勉強とかしとけよ、俺!って思うけれど、アレはアレでイイ青春時代だった(はず)。でも、タイムマシンあるなら高校の俺に「死ぬ気で勉強しろ、頼むからしろ!」って言うなきっと。

高校卒業時の記念にとあるオーディションにでたら、某サブカル系漫画雑誌と同じ名前のバンドの人に面倒を見てもらう事になった。ライブハウスとかホコ天(!)とかにてライブしたり、スタジオ入ったり、デモテープ作ったり。その後、大学3年の時だったと思うが、あるオーディションにて、これまたとある大物作曲家の人に、なぜだかわからんけれど気に入ってもらって、レコード会社に所属することに。本格的にそっちの活動がメインになっていった。小僧相手にも、空前のバンドブームの余波が来ていたのだよなぁ。びっくりするぐらい、給料も貰えてた。漠然と、バンドが仕事になっていくんだと思っていたが、もちろんそんなに簡単なものじゃぁない。大学卒業後は、音楽一本だったのだけれど、結果的には華々しいことは何もなく「おつかれさん」の一言で音楽からは離れる事となった。あそこで、そこにしがみついて続けるほどに、俺は音楽を愛してはいなかったんだと思う。

目の前の道が急になくなり、ハタと気づくと、俺には何のスキルも無いことがわかった。生きていくためにはお金がいる(高校卒業後すでに家は出てしまっていた)ので、とにかく仕事をした。飛び込みの営業、チョイ役ばかりの役者、ゴルフ場のキャディマスター、病院設立にともなう雑務および事務、レストランのホール、SEなどなど様々な仕事に就いた。一番初めに就いた職は自分で探したが、その後は全てそこで関わった人達に紹介されたり、誘われたり。自分には何も無かったが、周りの人達に素晴らしき人が多かった。それは今でも変わらない。そしてこの時期に、結婚もした。子供もできた。その時に、写真を撮ったのがこのContax T2だった。

入手したのは、ゴルフ場で働いている時。メンバー向けのコースの写真を撮るのが目的だった。当時はデジカメ創世記で、ガジェット好きとしては、CASIO QV-10Aなども買って使ったのだが、解像度も含めさすがに厳しい物があった。思えば、この時にデジタルカメラに多少の失望をし、次の機種を買うのを躊躇ったんだと思う(次はOLYMPUS E-300で、そこからGR3まで買ってない!)。結局、フイルムカメラを使うことにしたのだが、一眼レフでは広いコースを回るには大変なので、それなりに写るコンパクトカメラを探して、これにたどり着いた。

なにしろよく写る。ポジを入れて写すと、グリーンの色も素晴らしい。何も考えずにこれだけの写真が撮れるんだ、と感激した。その時は仕事にしか使っておらず、ゆえに遠景のみでの使用だった。「そういえば俺は、写真が好きだったんだよな」と思い出し、会社の人たちを撮ったり、家庭での写真を撮ったりし始めたら、とたんにこのカメラの欠点が見え始めた。撮影最短距離が、なんと70cm。全く寄れないのだ。んでもって、AFの中抜けがしょっちゅう発生する。近接用と遠景用で、フォーカスサークルが二つあるのだが、どうにもならん。室内から屋外を撮るようなシチュエーションでの露出のハズレも大きかった、盛大に白トビする。デジカメと違い、現像・プリントを経て、やっと失敗がわかるから落胆もでかい。

しかし、これらの欠点は使っているうちに対応できるものだった。一番厄介なAFの中抜けは、二つのサークルの交わる部分から、ちょっとだけ破線の方のサークル(近接用)に寄った部分でAFロックしてやると、まず抜けることはなくなった(個体差もあったらしいけどね)。露出のトビは、その時々で補正してやればいい(ダイヤルの出来が良く、とても補正はしやすい)し、露出変えて何枚か撮ればイイ。問題は撮影最短距離だ。こればっかりは、どうにもならないので、その距離をつかむしか無い。でも、これは俺にとっては、とてもいい勉強になった。今まで、一眼レフではとにかく寄って、ボカして気持ちよくなっていたのが、全体を見て、構図を考えて、ということをするようになったのだ。まぁ、最終的には日の丸にもどるんだけどね。でも、寄るだけじゃないんだぜ、っていうのを覚えたのはこのカメラ。

チタンを使った外装は、手にしっとりとなじむし、レンズがせり出すギミックや音も、ガジェット好きの心をくすぐる。シャッター音も小さくてイイのよね。凸面の少ないデザインもシンプルでいい。38mmという絶妙な画角と最短70cmというのは、俺が人を撮るのにメチャメチャ好きな構図になったし、f2.8と当時のコンパクトでは明るいレンズなのもよかった。PRESTOとの相性もすごくよくて、昼でも夜でもキレイなトーンを作ってくれた。そして、その解像感と立体感は圧倒的。自分の撮った写真で、モノやヒトが浮きだして見えたのは、このカメラが初めて。そしてそして!女の子が本当にキレイに写るカメラなのだ。これホント!気がつけばスンナリと、俺の最初の鞄カメラに。海外に行くときも常に一緒だったなぁ。恐らく、こいつか後の鞄カメラのRicoh R1sかが、俺内フイルム消費量No1カメラだろう。そういえば、店のレジ横に飾っているタイの公衆電話の写真も、これで撮ったものだ。AFは遅いし、それなりに重いけれど、今でも十二分に使える。

稼働率はかなり落ちたものの、今でも防湿庫にいる数少ないメンバーの一員、そんでもって大好きなカメラなのだった。

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